昭和44年04月13日 朝の御理解
御理解 第43節
「死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいが。死に際にもお願いせよ。」
生きておる間だけではない死んだ時とても、神様のおかげを受けなければならないと。死に際にもお願いをしなければならんという事。こう言う所が分からせて貰い、願わせて貰わなければおられないという信心から、本当のおかげというかおかげが受けられるとこう思うですね。是は死ぬるとか生きるとかという事だけでは有りません。こう言う所が勿論このまぁ大死一番といったこの事を申しますが。
あの死ぬる時にも、お願いをさせて頂くと云う事は、もう死んだ先でも、神様のおかげを受けなければ、ならない事を確信しておるから、願わなければおられんのです。だからそういう信心がこう頂ける為にですね、ここん所は死ぬとか生きるとかと、いう厳しい事ではなくて、私はまぁ他の意味においても、色々ここん所を、頂いて行かなきゃならんと思うですね。例えて申しますと、病気を致しますね。
神様に一心にお縋りをする。お願いをする。ここんところは出来るんです、所がその、薬を飲む医者にかかると云う事になるとですね、もう神様のおかげは受けんでもよい様な気がするらしいですね、皆。薬を飲まずに、医者にも掛らずに神様に一心にお縋りをする。その時は確かに一心にお縋りしておるけれども、医者に掛ったというたら、薬を飲んだというたら、信心が少し疎かになって来る。
もう医者に行ったんだから、いうなら薬を飲みよるからとこう思うらしい。いわゆるそこんところ、ここんところの、まぁ調子で申しますならね、医者に掛ったからというて、薬を飲んだからというて、神のおかげを頂かんわけにはいくまいが、と云う事になると思うんですよ。医者に掛ったからというて、薬を飲んでおるからというて、神のおかげを受けん訳にはいくまいが。
医者に掛っても薬を飲んでも、願わなければおられんじゃないかと。医者にかかる。例えば医者の診察違いが無い様に願わにゃおられん。薬の盛違いが無い様に、注射の打ち違いが無い様に、矢張り願わなければおられない。その注射一本だって、薬一服だって、天地の親神様のお恵みを受けずには、出来るものは何一つとて無いのである。確かにね、そんな、私ここでお取り次ぎさせて頂いてから思うんです。
神様にお願いをしておるもう薬も飲まずにおかげを頂いた、という時には有難いけれど、薬飲んでようなった時にはおかげ頂きましたといいよるけれども、薬飲まずにおかげ頂いた時程に有難くないおかしい。薬そのものも神様のお恵みであり又はお恵みなしには出来ておるものはないのですから、同じなんです。だから薬一服頂かせて頂く中にも医者に手を握って貰う事の上においてもです願わなければおられんのである。
例えば商売でもそうでしょう。何時何時は手形で御座いますから、どうぞおかげ頂きますように、手形の落ちるまで一生懸命言わば願う訳だ。集金の上にもお繰り合わせ頂かなきゃならん。いわゆる金銭のお繰り合わせ一生懸命願う。ところがまぁその日手形が落ちなかった。それで済んだ済む訳には行くまいが。なら落ちんなら落ちんでその先、万事お繰り合わせを頂かなければおられまいが。と云う事なんです。
先日手形の、あるちょっと前お届けがあったんです。所がその期日が来たけれども、お繰り合わせ頂けなかった。所がその後の事をよろしくまたお願いしますと云う事であったがね、銀行の方から、どうした事かその電話もかかって来なきゃ、言うても来ない。ところが銀行の方が、あの忘れとったかどうか知らんけれど、その一日そのこちらから延ばして貰うたじゃなくて延んだ。あくる日はお繰り合わせを頂いた。
出来なかったからというて、もうそれで、後の例えば、断りを言わなければならんなら、断りを言わなければ成らん事の上にもお繰り合わせ頂かんわけに、断りを言うても向こうが聞かんと言うたらそれまででしょう。ですから断りを又聞いて貰わにゃならんから、例えばんなら、手形がですよ落ちない。そこでなら銀行取り引きも、その止めねばならんと云う事になったと。
ならそれから先とても、矢張りおかげを受けなければならんのだから、願いを願いを、願いを次願いは続けなければならないと云う事が分かります。又はお繰り合わせお願いをしておる。所がお繰り合わせ頂けなかった、それでまぁ他ん所へ行ってお金を借りて、支払うたと。まぁ商売の上でも、金銭のお繰り合わせを頂いて集金がよって来たとか、売り上げが何時もより多くて、おかげ頂いたという時には、有難いけれども、他所から借りてから、払うた時には、もうおかげではない様に思うらしい。
私はそういう信心が分からなければね、今日ここ43節で言うておられる、死んだからというて、神のおかげを受けずには居られまいがと。死に際にもお願いをせよと。死んだ先、そこにも神様のお働きの中に、神様のおかげの中に、おかげを受けなければならないものだと云う事を確信するから、死に際にも願われるのである。と云う事を死ぬるとか生きるとかという厳しい事ではなくて、手前の方でですね、いうなら薬一服飲ませて頂くでもです、神のおかげを頂かん訳には行くまいがと。
神様が言うておる、ここに教えておられるその事をですね、思わせて頂いたら、その医者に、医者なら医者。薬なら薬がね、いわゆる本当の効果を現してくると思うんです。又のご理解に有ります様に、祈れ薬れにすればおかげになると仰る。薬れ祈れにするからおかげにならんと仰る。もうあの断言しておられます。おかげにならんと。そりゃ病気がようなるとかようならんとかという意味じゃありません。
おかげにならんとは、そういう事では信心のおかげにならん。信心が身に付いては行かない。神様のおかげを受けなければならないと云う事はね、言うならばもう一から十までが神様のおかげを受けなければならんのである。もうおかげ頂きらんやったけん薬のんだと。薬飲んだらようなったとという人達がもしあるとするならです、良くなるとか良くならんとかという事じゃなくてですね。その一服の薬の中にも神様のお恵みなしには、頂けんのですから出来んのですから。
その薬の中にも、薬を頂かせて頂くのにも、お恵みのものを頂くとして、願わして貰い。お礼をもうさせて貰い。そこからそのいうなら、薬がいわゆる祈れ薬れという事になっておかげになる。いわゆる十二分に薬の効果を発揮する事が出来る様なおかげに成って来る。死に際にもお願いをせよと。お願いをしておる、お願いをしない。そこには大変な違いが生まれてくると思う。もう死んだからと言うたらもう。神様のお世話にならんでよかと言った様なものじゃない。
死んだからというて、神のおかげを受けずにはおられまいがと、と云う事はどの様な中にでも、神様のおかげを受けなければならん。自分の思う様になると云う事だけを、例えば、勿論思う様に成る様に願うんですけれども、それが思う様に成らなかったからというて、おかげを頂かん訳には行くまいが。思う様にならないそこにもです、願いつがなきゃおられん。いわゆる願いを込めなければおられない。
そこからです、思う様には成らなかったけれども。思う以上のおかげが頂けたと言う様なおかげが頂けて来る様になるのです。本当のご神意が分からせて貰う。そういう私は体験を積ませて頂いて初めてです、死に際にも願われる様な、尊い信心がね、神様を信じきっての信心が出来るようになると思うのです。どうぞ、金銭の上にも、人間関係の上にもいわば、病気痛みの上にもですね、このみ教えを当てはめて考えて見なければならんと思うのですね。
どうぞ。